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6月29日、延岡大空襲の日

本紙掲載日:2018-06-28
1面
今山大師像前広場に建つ殉難碑

昭和20年6月29日未明−死者300人以上

◆投弾機数117、投下焼夷弾10万発−米軍資料

 昭和20年6月29日未明、延岡の街は米軍による焼夷(しょうい)弾の集中攻撃によって火の海となった。この延岡大空襲で飛来した大型戦略爆撃機B29の数と焼夷弾の数がはっきりしていない。これまで、それぞれ二つずつ別の数字が用いられてきた。B29の飛来機数は「40余機」と「117機」。焼夷弾は「約50万発」と「10万1855発」という数字だ。

□殉難碑の数字

 「四十余機による油脂焼夷弾攻撃は投下約五十万発」と記しているのは、今山大師像前広場に立つ延岡空襲殉難碑。この碑文を書いた日向日日新聞延岡支局長だった芦谷新一氏は昭和37年に月刊誌「延岡春秋」を創刊した。

 同誌は毎年6月に空襲特集を書いているが、その記事に登場する数字が少しずつ違っている。

 終戦から21年後の昭和41年6月号では見出しに爆撃機B29を「50余機」、本文には焼夷弾を「20万発投下」とある。翌42年の記事には爆撃機が「推定50機」、焼夷弾は「50万発」。

 その後、殉難碑が建立された昭和53年の同誌には、爆撃機B29が「40余機」、焼夷弾「約50万発」とあり、殉難碑にはこの数字が刻まれている。

 しかし、刻まれた爆撃機と焼夷弾の数の根拠は、今となっては不明のままだ。

□米軍資料

 その後、米軍の資料が冊子にまとめられ、その資料からB29の飛来数、焼夷弾の数が明らかになった。記録には「117機」「10万1855発」とあった。

 資料にはさらに細かな記録が残されている。

 20年6月28日、米軍の21爆撃機集団に下った作戦命令は岡山、佐世保、門司、延岡への4都市同時夜間爆撃。このうち、延岡への攻撃を担当したのは第314航空団。

 延岡攻撃に参加したのは本隊に目標を指示する先導機12機、焼夷弾を搭載し投弾した爆撃機105機の計117機。最初の閃光(せんこう)弾投下から爆撃終了まで91分間の爆撃だった。

 搭載した焼夷弾は、500ポンド集束焼夷弾が2415個、100ポンド焼夷爆弾が1万468個、閃光弾53個。帰還途中に投棄した分もあり、差し引くと集束焼夷弾2571個、焼夷爆弾が1万32個、閃光(せんこう)弾50個を投下している。

 集束焼夷弾には38本の焼夷弾が束ねられている。これを踏まえて焼夷弾の数を多く見積もっても投下されたのは約10万発となる。(出典「米軍資料 北九州の空襲〜八幡・門司・岡山・佐世保・延岡への焼夷空襲の記録」)

□戦災者数は不明

 死者数についてはさらにさまざまな数字が飛び交う。

 延岡春秋では「当時、この空襲による殉難者は百三十名と市で発表した」とあるが、昭和39年の全国戦災都市空爆死没者数一覧では「死亡者138名」、毎日新聞社が昭和50年発行の一億人の昭和史では「死亡者258名」とまちまちだ。

 昭和53年の殉難碑建立に先立ち、元日窒化学工業薬品部合成係長の市山幸作氏らが中心となって寺に残る過去帳などを調べた結果では戦災者は318人だった。

 延岡大空襲で川中地区にあった市役所、警察署、郵便局などが全焼し、その後に多くの市民が市外へ疎開した影響で、今でも確かな数字を把握することは難しい。

 市山氏は著書「太平洋戦争 延岡空襲戦災記」の中で、「正確な数字をつかみ得ていないことは残念。調査の困難な事情はわかるにしても、市民にとっては大悲劇であり、他都市のように正確にすることが特に大切なことと思う」と訴えた。

□7月8日まで平和祈念資料展

 第15回平和祈念資料展は「延岡の空襲〜犠牲者たちを忘れないために」をテーマに延岡市立図書館で7月8日まで開催している。昭和20年3月4日から終戦前日の8月14日まで十数回記録されている延岡への空襲について、体験者の証言や米軍資料などを交えながら、被害の大きさを具体的に展示している。

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