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球児に注いだ情熱−名将河野譲次さん勇退

本紙掲載日:2020-05-09
8面

延学、都東で指揮−プロも輩出

◆42年の監督・部長死活にピリオド

 延岡学園高校と都城東高校で野球部の監督を務めた河野譲次さん(73)=延岡市稲葉崎町=が今年3月、42年にわたる高校球児の指導にピリオドを打った。最後の大会になるはずだった3月の九州地区高校野球大会県予選は、新型コロナウイルス感染拡大防止のため中止に。集大成は意外な形だったが、6人のプロ野球選手を育てた名将は「高校野球に長く携わることができたのは、多くの方の支えやご協力があったからこそ。心から感謝している」と振り返る。

 河野さんは、監督として県大会優勝25回、九州大会出場6回、甲子園出場2回を誇る。教え子には、松浦英信(元中日)、黒木知宏(元ロッテ)、黒木純司(同)、梶原康司(元阪神)、草野大輔(元楽天)=いずれも延岡学園高出=、武藤敦貴(楽天)=都城東高出=がいる。

 指揮官としての甲子園初陣は1978年夏。延岡学園高を初の聖地に導き、初戦で石動高校(富山)を破って悲願の県北勢甲子園初勝利を挙げた。

 8強を懸けた次の報徳学園(兵庫)戦で敗れたが、県北の高校野球界に新たな一ページを刻んだ。同校では91年に部長として、監督に復帰した後の94年にも甲子園出場を果たした。

 球児の指導に情熱を注いだこれまでを振り返ってもらった。

――監督生活を振り返っていかがですか。

指導者として高校野球に長く携わることができたのは、多くの方の支えやご協力があったからこそ。心から感謝しています。振り返れば、24時間365日ずっと監督をしていたと思います。
縁あって入部してくれた選手一人一人を大事にするという気持ちでやってきました。一日ですべての選手に声を掛けるのは難しいので、いつも寝る前に「あしたはあの選手に声を掛けて、こういう指導をしようかな。どうしたら奮起してくれるかな。この選手の心の鐘はどうやったら鳴らすことができるかな」と毎日考えていました。

――どういう指導を心掛けてこられましたか。

時代に合わせて指導法や選手への接し方は変わっていきましたね。ただ、変わらずに言い続けたことがあります。それは「人に好かれる野球人になりなさい」ということです。おべっかを使うとかではなく、どんな時でもフェアプレーの精神で、爽やかでいられる心をつくるよう言ってきました。
高校野球は3年間しかなく、その後の人生の方が長い。社会に出てからも、フェアプレーの精神でいられる人は素晴らしいと思います。教え子の多くは「監督は技術的なことはあまり言わなかったが、監督から教わったのは『野球道』でした」と言われます。

――6人のプロ野球選手を育てました。

プロになった選手は確かに高い能力を持っていましたが、何よりも志が高かったと思います。自分の信念が揺るがず、歯を食いしばって、血のにじむような練習をして、誰よりも汗を流していたことをよく覚えています。
プロ野球選手になることは、もちろん大変なことですが、それ以上に私がうれしいのは、全員が引退した後も球界に残っていることです。野球だけではなく、彼らは社会人としても「人に好かれる野球人」を体現してくれています。

――長い監督生活でした。反省点などがあれば教えてください。

反省といいますか、人からも指摘されるんですが、情に弱いところがあり、そこが弱点だと思います。
3年間、誰よりも努力した選手には情が入ってしまうものです。実力で勝る下級生がいても、3年の夏は最後のチャンス。勝つことも大事ですが、高校野球は教育の場であり、3年生にチャンスを与えたこともありました。

――思い出に残っている試合はありますか。

たくさんあります。挙げるとすれば、甲子園を決めた試合でしょうか。決勝戦で母校の高鍋高校に勝って初めて甲子園出場を決めた試合です。
苦しいゲームでした。延長戦までもつれ、最後はサヨナラのピンチをしのいで逃げ切っての勝利でした。決まった直後は周りを見る余裕がなかったですね。帰りのバスでようやく優勝の実感が湧いてきて、天にも昇るような気分でした。ただ、すぐに県代表だと気持ちが引き締まったことを覚えています。

――勇退を決めたのはなぜでしょうか。

体力的に難しいと感じました。ゲーム中、ベンチの最前線にしっかりと立ち、選手に気持ちを込めて指示を送り、自分も戦う気持ちでやってきました。ただ、自分の納得のいく動きができなくなり、体力的に厳しくなりました。
最後の教え子となった選手たちは「春の大会で監督を胴上げする」と優勝を目指して練習に励んでくれました。コロナ禍で大会は中止になり、残念ですが、仕方ありません。

――監督生活を終えられた今の気持ちは。

悔いが残らないと言ったら嘘になりますね。「もっといいチームがつくれた」「もっとこうすれば良かった」。そういう気持ちでずっとやってきましたので。
選手の成長を感じたり、努力して結果を出してくれたりした時は本当にうれしかったです。でも、自分自身に満足したことは一度もありませんでした。

――今後はどうされますか。

野球とはずっと縁が切れないと思います。県北や宮崎県の高校野球の実力も上がってきています。さらに盛り上げるように応援していきたいと思います。

【プロフィル】
恒富小―延岡中―高鍋高―国士舘大―静甲いすゞ―日拓観光でプレー。27歳で延岡学園高校の野球部監督に就任。1978年に甲子園に初出場、県北勢初勝利。91年に部長、監督復帰後の94年にも甲子園出場。その後、都城東高校でも指揮を執った。教諭としても両校で社会科を指導した。座右の銘は「六然訓(りくぜんくん)」。

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