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延岡大空襲から75年

本紙掲載日:2020-06-27
1面
今山大師境内に立つ延岡空襲殉難碑

市街地が焦土化、多数の犠牲者

◆29日、今山大師・殉難碑前で慰霊法要

 太平洋戦争末期の1945(昭和20)年6月29日未明、延岡市の中心部を焼き尽くし多数の死者を出した大空襲から75年。殉難碑のある延岡市山下町の今山大師(野中玄雄住職)で29日午前10時から、遺族や関係者が参列して慰霊法要が営まれる。野中住職は、マスク着用など新型コロナ感染拡大防止策をした上で、多くの市民の参列を呼び掛けている。小雨決行だが、雨の状況によっては今山大師本堂で執り行う。

 慰霊法要には、遺族や行政関係者、わかば幼稚園の園児らが参列して、犠牲者の供養と恒久平和を祈念する。園児の子ども献花、遺族や行政代表のあいさつなどが予定されている。

 延岡大空襲は、45年6月29日未明、飛来した米軍爆撃機B29が投下した焼夷(しょうい)弾で市の中心部が瞬く間に火の海に包まれ、岡富、川中、恒富地区が焦土と化した。63年2月に発刊された「延岡市史」によると、空襲2日後の7月1日の被害状況は、即死130人、行方不明8人、重傷者11人、軽傷者48人、被災戸数3765戸、被災者数1万5232人。全戸数の28・7%、全人口の25・5%が被災したとされる。

 殉難碑建立委員会が記録した焼失地域は「川中地区(新町、柳沢町、本町、南町、中町、北町、船倉町、天神小路ならびに本小路、桜小路の一部)▽川北地区(紺屋町、元町、博労町、祇園町の東側、瀬之口ならびに萩町、北小路の一部)▽恒富地区(川原町、春日館通、第二下出口、三ツ瀬、新小路ならびに出口、西小路、本村の一部)▽南方地区(大貫の一部)▽軍需工場(日窒化学工業株式会社〈薬品部、ベンベルグ部、プラスチック部、雷管部、レーヨン部、ダイナマイト部〉)間野航空株式会社等は被害甚大▽橋(五ケ瀬橋、須崎橋、大瀬橋の各一部焼失)▽恒富地区、南方地区の水田に焼夷弾多数投下」。

◆殉難碑の撰文

 殉難碑の撰文(せんぶん)には、大空襲の模様を次のように記録している。
昭和16年12月8日勃発した太平洋戦争はわが軍の真珠湾奇襲作戦により前半には勝利をおさめたが、米軍の物量と科学戦による攻撃で逆転、昭和20年8月15日、遂にわが国の敗戦に終わった。この間本土への空襲は激化し、軍需工場群を擁した延岡市においても20年3月4日から終戦前日まで十数回の空襲を受け、とくに20年6月29日午前1時15分から3時間にわたるB29爆撃機40余機による油脂焼夷弾攻撃は投下約50万発、市中心部は一瞬のうちに火の海となり、その勃火の中を市民は阿鼻叫喚(あびきょうかん)、かろうじて五ケ瀬、大瀬河原に避難したが、まさに戦争の生んだ悲劇であった。

 恐怖の一夜が明けると、市街地の大半は一木も残さず焼き尽くされ、一望焦土と化しているのを市民はぼう然と眺めながら、肉親を求めて右往左往するのみであった。この焼夷弾攻撃による被害は、別記の通りであるが、銃後を護(まも)る市民をはじめ学徒挺身(ていしん)隊、産業報国隊など非戦闘員の殉難者は実に300名を超えた。

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