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服飾、介護単位制高校−卒業生約6千人
◆トライアート・カレッジ−延岡市須崎町 延岡市須崎町の学校法人ミウラ学園(片寄美佐子理事長)は、今年度末で閉校する。戦後間もなくから服飾の専門学校として洋裁、和裁などの技能者を育成。平成時代に併設した高等課程、介護職員研修事業を含め、76年間で約6千人の卒業生を社会に送り出した。 同学園は1947(昭和22)年、「私立延岡洋裁専門女学院」として恵比須町で発足した。創立者は、のちに延岡市文化功労者を受賞する三浦ミサオさん(96年死去)。48年に現在地に移転。53年に「準学校法人延岡洋裁専門学校」、77年に「学校法人延岡文化服装専門学校」、96(平成8)年に現在の法人名と学校名「トライアート・カレッジ」に改称した。 97年から2016年までは向陽台高校宮崎キャンパス(単位制高校)を併設。99年から昨年3月までは訪問介護員や介護職員を養成するなど、時代に沿った教育を行った。また、一般対象に昨年12月まで指導した「ソーイング倶楽部」が好評を博した。 片寄理事長(75)は三浦さんのめい。東京文化服装学院を修了後、22歳から延岡洋裁専門学校で助手を務め、三浦さんが亡くなる前年に理事長を継いだ。 「私が洋裁の指導を始めた当初は(木造2階建ての建物の)2階が和裁、1階が洋裁で、生徒が多かった。別棟に縫製工場があり、アパレルメーカーの下請けもしていた」と懐かしむ。 生徒減少と経営の後継者がいないことが閉校の理由。「ファッション業界を目指す子どもはいるが、みんな都会に行ってしまう。伯母が創った学校を閉じるのは残念だが、あきらめざるをえない」 教師としては「高等課程の生徒たちと切磋琢磨(せっさたくま)したことが思い出に残っている。寝ている生徒の布団をはいで、学校に連れてきたこともあった。やんちゃだった生徒が今、経営者になって頑張っていると聞くとうれしい」と目を細めた。学園の土地と建物は、市に寄贈する予定という。
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服飾、介護単位制高校−卒業生約6千人
◆トライアート・カレッジ−延岡市須崎町
延岡市須崎町の学校法人ミウラ学園(片寄美佐子理事長)は、今年度末で閉校する。戦後間もなくから服飾の専門学校として洋裁、和裁などの技能者を育成。平成時代に併設した高等課程、介護職員研修事業を含め、76年間で約6千人の卒業生を社会に送り出した。
同学園は1947(昭和22)年、「私立延岡洋裁専門女学院」として恵比須町で発足した。創立者は、のちに延岡市文化功労者を受賞する三浦ミサオさん(96年死去)。48年に現在地に移転。53年に「準学校法人延岡洋裁専門学校」、77年に「学校法人延岡文化服装専門学校」、96(平成8)年に現在の法人名と学校名「トライアート・カレッジ」に改称した。
97年から2016年までは向陽台高校宮崎キャンパス(単位制高校)を併設。99年から昨年3月までは訪問介護員や介護職員を養成するなど、時代に沿った教育を行った。また、一般対象に昨年12月まで指導した「ソーイング倶楽部」が好評を博した。
片寄理事長(75)は三浦さんのめい。東京文化服装学院を修了後、22歳から延岡洋裁専門学校で助手を務め、三浦さんが亡くなる前年に理事長を継いだ。
「私が洋裁の指導を始めた当初は(木造2階建ての建物の)2階が和裁、1階が洋裁で、生徒が多かった。別棟に縫製工場があり、アパレルメーカーの下請けもしていた」と懐かしむ。
生徒減少と経営の後継者がいないことが閉校の理由。「ファッション業界を目指す子どもはいるが、みんな都会に行ってしまう。伯母が創った学校を閉じるのは残念だが、あきらめざるをえない」
教師としては「高等課程の生徒たちと切磋琢磨(せっさたくま)したことが思い出に残っている。寝ている生徒の布団をはいで、学校に連れてきたこともあった。やんちゃだった生徒が今、経営者になって頑張っていると聞くとうれしい」と目を細めた。学園の土地と建物は、市に寄贈する予定という。