本紙掲載日:2023-04-22
(7面)

〃たけだんさん〃と「ひとつ星」(2)

〜竹谷神社の令和大造営への思い〜山洋一

◆「竹谷」の由来は神話から−病気平癒の参拝でにぎわい

 さて竹谷の由来は神話へとさかのぼります。天より降ってきた瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)は、笠沙の岬(愛宕山)で此花咲耶姫(このはなさくやひめ)と運命の出会いを果たし、無鹿町の妻耶(つまや)に社を構えます。その後、此花咲耶姫を伴い北川沿いのキュウゴ火繰(ひぐ)りを経て観音滝で沐浴(もくよく)し、百間滝を通り可愛の長井へと向かいました。道中、可愛岳の中腹で疲れを癒やした瓊瓊杵尊が、持っていた竹のつえを地面に挿し残していったところ、つえが芽吹き逆さの竹が生えてきました。そのささを牛馬に与えると薬効があることが知られるようになり、その地は「竹谷」と呼ばれるようになったといわれています。竹谷に社が建てられ、祭りが営まれるようになり、その後、寺領1300の通法寺に守護されていましたが、天正6(1578)年の大友軍の日向侵攻により、祭りが途絶え社の場所も定かでなくなったようです。

◇江戸時代に神社創建

 竹谷神社の創建は、それからおおよそ200年へた江戸時代の話となります。大峡に住む信仰心のあつい長右衛門が長患いをしていると、宝暦12(1762)年4月と明和8(1771)年3月の2度、瓊瓊杵尊が夢枕に立たれたと伝わります。夢枕に立った2度目のお姿を長右衛門が描かせた掛け軸が残されており、軸には「十五日夜暁夫婦共に見る」と記されています。同じ夢を見て「われこそは、この村の満潮のてより八合目の可愛岳の麓に鎮座するものである……」と神託を受けた長右衛門夫婦は畏(おそ)れをもち、さっそく竹谷に向かい、その日の夕刻に赤い火の見える所にたどり着きました。そこにあった石に触れると石が起き上がり、ただちに長右衛門の病が治ったといわれます。

 話を聞いた村人たちは祠(ほこら)を立て、その立石をご神体とし祭り、やがて病気平癒の噂(うわさ)は近郷近在に広がり、多くの人が参拝に訪れるようになりました。時の藩主の帰依も厚く、社の前を流れる谷川の右岸に休息所を設け毎月参拝がありました。本草学者の賀来飛霞(ひか)は、弘化2(1845)年4月にこの地を訪れ、長右衛門の息子と会い「瓊瓊杵尊は、白い衣服を着て、黄金造りの剣を腰にし、赤い帯をしていた」と夢の話を聞いたことや、縁日には延岡城下から神社まで群衆が絶え間なく続く様子を「高千穂採薬記」に記しています。往時のにぎわいの名残として「八軒茶屋」の地名が山中に残っています。

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