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内藤政擧公の命日・功績に感謝
最後の延岡藩主、内藤政擧公(1852~1927)の命日に当たる23日、延岡市の内藤家顕彰会(大崎清会長)は供養会を、延岡高等女学校同窓会の藤蔭会(寺原八千代会長)は墓前祭を行い、内藤家の功績に改めて感謝した。 ◆内藤家顕彰会-三福寺で頌徳供養会 内藤家顕彰会の頌徳(しょうとく)供養会は、延岡市北町の三福寺(田村智英住職)であった。新型コロナウイルス感染拡大防止のため、理事6人のみが参列。遺徳をしのんだ。 正面には同会が持参した政擧公らの遺影が飾られ、田村智彰副住職の読経が響く中、参列者が焼香し、手を合わせた。 同会は毎年、内藤家の菩提(ぼだい)寺である同寺で供養会を実施。会員ら50人ほどが参列していた。新型コロナウイルスの影響による中止も経て、昨年からは役員のみで行っている。 法要を営んだ田村副住職は、今年が政挙公の97回忌であることを紹介。「あと3年経てば100回忌。(体調不良で欠席した)大崎会長を中心に100回忌がしっかりできるように、皆さん、元気に過ごしてください」と呼び掛けた。 同会は秋に、城山北大手門脇の内藤家墓所で墓参会を実施。会誌「亀井」の発行など、顕彰活動を続けている。 ◆藤蔭会-台雲寺で墓前祭 藤蔭会の内藤家墓前祭は、延岡市北小路の台雲寺(中本光勇住職)であった。 89~98歳の14人が、高千穂町や日向市からも出席。政擧公の墓に花束を供え、中本住職ら僧侶3人が読経し、卒業生一人一人が焼香した。 内藤家は、女児教舎時代の1891(明治24)年から、県に移管される1929(昭和4)年4月まで延岡高等女学校を経営した。同校に入学した生徒は、必ず墓前参拝をしていたという。 中本住職は「感謝の気持ちを供えてほしい。皆さんが元気であれば、お殿様も喜ばれるでしょう」とあいさつ。 寺原会長(95)=37回生=は、城山の本丸跡に立つ政擧公の銅像について、年配者から「誰ですか」と尋ねられた経験から「内藤のお殿様を知らない人が増えてきた」と残念がり、銅像建立の歴史を説明。「貧しい方が『5厘(1銭の半額)でも寄付をしたい』と申し出たと聞いている。そんなふうに慕われた方だった。伝承するため皆さんも機会あるごとに、周りにお殿様の話をしてください」と呼び掛けた。 現在の政擧公の像は3代目。初代は1917(大正6)年、1万5256円2銭5厘の寄付で建立されたという。戦時中の金属供出でセメント像になっていたが、85(昭和60)年に再び募金で復元され、現在に至る。 ◆女学生らと写る政擧公-明治時代に撮影・墓前に供える 政擧公を前列中央に、記念写真に納まる日本髪の女性たちと、洋装・和装の男性たち-。明治時代、内藤家が経営していた私立延岡女学校(のちの県立延岡高等女学校)で撮られたとみられる=写真=。 藤蔭会の内藤家墓前祭で、政擧公の墓前に供えられた。 写真は、同校の後身の県立延岡高校が1999年、創立100周年を迎えた記念で発行された「百年史」のために寄せられたもので、編さん委員だった喜多昭子さん(95)=延高女38回生=が、接写して大事に持っていた。 初めて写真を見た時、驚いたという。政擧公の向かって左隣が、喜多さんの母方の祖父の岩切逸夫(いつお)さんだったからだ。岩切さんは御典医で、同校では書道を教えていたという。 墓前祭に集まった卒業生たちは、45年の延岡大空襲で全焼した同校の校舎について「ステンドグラスもあって、すごくきれいな校舎だった」と思い出を話していた。
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内藤政擧公の命日・功績に感謝
最後の延岡藩主、内藤政擧公(1852~1927)の命日に当たる23日、延岡市の内藤家顕彰会(大崎清会長)は供養会を、延岡高等女学校同窓会の藤蔭会(寺原八千代会長)は墓前祭を行い、内藤家の功績に改めて感謝した。
◆内藤家顕彰会-三福寺で頌徳供養会
内藤家顕彰会の頌徳(しょうとく)供養会は、延岡市北町の三福寺(田村智英住職)であった。新型コロナウイルス感染拡大防止のため、理事6人のみが参列。遺徳をしのんだ。
正面には同会が持参した政擧公らの遺影が飾られ、田村智彰副住職の読経が響く中、参列者が焼香し、手を合わせた。
同会は毎年、内藤家の菩提(ぼだい)寺である同寺で供養会を実施。会員ら50人ほどが参列していた。新型コロナウイルスの影響による中止も経て、昨年からは役員のみで行っている。
法要を営んだ田村副住職は、今年が政挙公の97回忌であることを紹介。「あと3年経てば100回忌。(体調不良で欠席した)大崎会長を中心に100回忌がしっかりできるように、皆さん、元気に過ごしてください」と呼び掛けた。
同会は秋に、城山北大手門脇の内藤家墓所で墓参会を実施。会誌「亀井」の発行など、顕彰活動を続けている。
◆藤蔭会-台雲寺で墓前祭
藤蔭会の内藤家墓前祭は、延岡市北小路の台雲寺(中本光勇住職)であった。
89~98歳の14人が、高千穂町や日向市からも出席。政擧公の墓に花束を供え、中本住職ら僧侶3人が読経し、卒業生一人一人が焼香した。
内藤家は、女児教舎時代の1891(明治24)年から、県に移管される1929(昭和4)年4月まで延岡高等女学校を経営した。同校に入学した生徒は、必ず墓前参拝をしていたという。
中本住職は「感謝の気持ちを供えてほしい。皆さんが元気であれば、お殿様も喜ばれるでしょう」とあいさつ。
寺原会長(95)=37回生=は、城山の本丸跡に立つ政擧公の銅像について、年配者から「誰ですか」と尋ねられた経験から「内藤のお殿様を知らない人が増えてきた」と残念がり、銅像建立の歴史を説明。「貧しい方が『5厘(1銭の半額)でも寄付をしたい』と申し出たと聞いている。そんなふうに慕われた方だった。伝承するため皆さんも機会あるごとに、周りにお殿様の話をしてください」と呼び掛けた。
現在の政擧公の像は3代目。初代は1917(大正6)年、1万5256円2銭5厘の寄付で建立されたという。戦時中の金属供出でセメント像になっていたが、85(昭和60)年に再び募金で復元され、現在に至る。
◆女学生らと写る政擧公-明治時代に撮影・墓前に供える
政擧公を前列中央に、記念写真に納まる日本髪の女性たちと、洋装・和装の男性たち-。明治時代、内藤家が経営していた私立延岡女学校(のちの県立延岡高等女学校)で撮られたとみられる=写真=。
藤蔭会の内藤家墓前祭で、政擧公の墓前に供えられた。
写真は、同校の後身の県立延岡高校が1999年、創立100周年を迎えた記念で発行された「百年史」のために寄せられたもので、編さん委員だった喜多昭子さん(95)=延高女38回生=が、接写して大事に持っていた。
初めて写真を見た時、驚いたという。政擧公の向かって左隣が、喜多さんの母方の祖父の岩切逸夫(いつお)さんだったからだ。岩切さんは御典医で、同校では書道を教えていたという。
墓前祭に集まった卒業生たちは、45年の延岡大空襲で全焼した同校の校舎について「ステンドグラスもあって、すごくきれいな校舎だった」と思い出を話していた。