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読谷山市長、跡地活用「多方面から検討」
3月末で閉校した延岡市の学校法人ミウラ学園(片寄美佐子理事長)が、須崎町の土地建物や備品などの財産を市に寄付した。これに対し、読谷山洋司市長が15日、片寄理事長へ市からの感謝状を贈った。 今月1日付で寄付されたのは、2階建て校舎2棟を含む計875平方メートルの宅地。また、備品は3月に寄付され、すでに市内の小中学校14校で机や椅子など30品目(延べ約220個)が使用されているという。 感謝状贈呈式で片寄理事長は、伯母で先代理事長の故・三浦ミサオさんが1948(昭和23)年に設立した学校施設や、卒業生との思い出を振り返り、「跡地をどうすればいいか悩みましたが、市に引き受けていただいて良かったです」と感謝。「(学校周辺の)川中地区にはコミュニティセンターなどがないので、若い人からお年寄りまでが集って楽しめる場にしていただければ」と希望した。 これに対し読谷山市長は、建物は老朽化していて放置すれば防災や治安面の心配が残るため、いったん更地にして、活用法については今後、多方面から検討していく考えを説明。「多くの若者が巣立ち大事な思い出の詰まった場所であることを再認識しながら、大切に活用させていただきたい」と話し、跡地にはミウラ学園が存在したことを伝え残す碑(いしぶみ)を建てると約束した。 【ミウラ学園】1947(昭和22)年、私立延岡洋裁専門女学院として恵比須町で発足し、翌48年に須崎町へ移転。53年に準学校法人延岡洋裁専門学校、77年に学校法人延岡文化服装専門学校、96(平成8)年に現在の法人名となり、学校名をトライアート・カレッジに改称した。 99年から2022年3月までは訪問介護職員や介護職員を養成するなど、時代に沿った教育を提供し、同年12月までは一般を対象にソーイング倶楽部も指導。戦後間もなくから服飾の専門学校として洋裁、和裁などの技能者を育成し、今年3月までの76年間で約6千人の卒業生を社会へ送り出した。
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読谷山市長、跡地活用「多方面から検討」
3月末で閉校した延岡市の学校法人ミウラ学園(片寄美佐子理事長)が、須崎町の土地建物や備品などの財産を市に寄付した。これに対し、読谷山洋司市長が15日、片寄理事長へ市からの感謝状を贈った。
今月1日付で寄付されたのは、2階建て校舎2棟を含む計875平方メートルの宅地。また、備品は3月に寄付され、すでに市内の小中学校14校で机や椅子など30品目(延べ約220個)が使用されているという。
感謝状贈呈式で片寄理事長は、伯母で先代理事長の故・三浦ミサオさんが1948(昭和23)年に設立した学校施設や、卒業生との思い出を振り返り、「跡地をどうすればいいか悩みましたが、市に引き受けていただいて良かったです」と感謝。「(学校周辺の)川中地区にはコミュニティセンターなどがないので、若い人からお年寄りまでが集って楽しめる場にしていただければ」と希望した。
これに対し読谷山市長は、建物は老朽化していて放置すれば防災や治安面の心配が残るため、いったん更地にして、活用法については今後、多方面から検討していく考えを説明。「多くの若者が巣立ち大事な思い出の詰まった場所であることを再認識しながら、大切に活用させていただきたい」と話し、跡地にはミウラ学園が存在したことを伝え残す碑(いしぶみ)を建てると約束した。
【ミウラ学園】1947(昭和22)年、私立延岡洋裁専門女学院として恵比須町で発足し、翌48年に須崎町へ移転。53年に準学校法人延岡洋裁専門学校、77年に学校法人延岡文化服装専門学校、96(平成8)年に現在の法人名となり、学校名をトライアート・カレッジに改称した。
99年から2022年3月までは訪問介護職員や介護職員を養成するなど、時代に沿った教育を提供し、同年12月までは一般を対象にソーイング倶楽部も指導。戦後間もなくから服飾の専門学校として洋裁、和裁などの技能者を育成し、今年3月までの76年間で約6千人の卒業生を社会へ送り出した。