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36回生から最後の学年の44回生−在り方について意見交換
◆これからもささやかな集まりを 県立延岡高等女学校の同窓会、藤蔭会(寺原八千代会長)は12日、延岡高校同窓会館「延陵会館」で役員会を開いた。延岡市の市制施行90周年で市から受けた感謝状を披露したほか、コロナ禍で中断している藤蔭会(懇親会)の今後の在り方について意見交換。「大々的にはできないけれど、ささやかな集まりを『藤蔭会』と銘打ってやっていきましょう」と確認し合った。 役員会には、36回生(今年97歳)から最後の学年の44回生(90歳)までクラス代表15人と、付き添いの家族2人の計17人が出席した。 最初に感謝状の披露があり、西田雪子副会長(44回生)が文面を読み上げた。寺原会長(37回生)は「延女(えんじょ)は、内藤様に受けたご恩を忘れず、墓前祭、墓所の掃除などを続けてきた。それを評価してもらったのでは」と話した。 藤蔭会は1904(明治37)年に組織され、戦争で中断したが、82(昭和57)年に復活の第1回を開催。コロナ禍前の2019(令和元)年までに38回開かれた。 千人もの出席者を収容できる宴会場が市内にないため、1999(平成11)年までは、特別に借りた旭化成体育館で開催していた。その後は宴会場に移り、規模は徐々に小さくなってきていたが、直近の19年も150人が集っていた。 「コロナで開けなかった間に、鬼籍と施設に入られた方が多いけど、このままうやむやにはしたくない」と寺原会長。復活藤蔭会の初代会長だった平野ツルさん(故人)が「最後の2人になるまでやってね」と話していたこと、前会長の酒井宗喜さん(34回生)もそれを受け継いでいたことを伝えた。 出席者からは「『最後の2人まで』は難しい」との意見も出たが「こうして集まって、話をするだけで元気になる」とは、全員が実感。この日も女学校時代や戦時中の思い出話が次から次へとあふれ出た。 41(昭和16)年に開校した市立高等女学校との合併で生徒が急に増えたため、寺原会長ら専攻科の生徒たちは、8カ月間、内藤邸の200畳の広間で授業を受けたという。 他に「女学校のお作法室は、お殿様がご自分の御書院をコンパクトに縮めた造りだったので美しかった。トイレも畳敷き。周りには廊下があって、欄干には擬宝珠(ぎぼし)が付いていた」「講堂には、とてもきれいなガラスが入っていた」「講堂とお作法室の間には木が植えられていて、あれは日本庭園だったそうですよ」など。しかし、延岡大空襲で校舎が焼失したため、仮校舎しか知らない44回生は、しきりにうらやましがった。 戦時中の話は、学徒動員で風船爆弾や弾を造った、機銃掃射を受けた経験など。「戦争はもう絶対にしちゃいけない。子どもにはまず、近代史を教えるべき」などの声が聞かれた。 同校は1876(明治9)年創設の女児教舎に始まり、1901(同34)年に私立延岡女学校、29(昭和4)年に県立となり、戦後の学制改革で48(同23)年に県立恒富高等学校(のちの延岡高校)と県立岡富高等学校に分かれた。女児教舎時代の1891(明治24)年から、県に移管されるまで延岡藩主内藤家が経営していたことから、藤蔭会は、最後の藩主政擧公の命日には墓前祭(台雲寺)を、秋の彼岸には城山北大手門脇の内藤家墓所の清掃を続けるなどしている。
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36回生から最後の学年の44回生−在り方について意見交換
◆これからもささやかな集まりを
県立延岡高等女学校の同窓会、藤蔭会(寺原八千代会長)は12日、延岡高校同窓会館「延陵会館」で役員会を開いた。延岡市の市制施行90周年で市から受けた感謝状を披露したほか、コロナ禍で中断している藤蔭会(懇親会)の今後の在り方について意見交換。「大々的にはできないけれど、ささやかな集まりを『藤蔭会』と銘打ってやっていきましょう」と確認し合った。
役員会には、36回生(今年97歳)から最後の学年の44回生(90歳)までクラス代表15人と、付き添いの家族2人の計17人が出席した。
最初に感謝状の披露があり、西田雪子副会長(44回生)が文面を読み上げた。寺原会長(37回生)は「延女(えんじょ)は、内藤様に受けたご恩を忘れず、墓前祭、墓所の掃除などを続けてきた。それを評価してもらったのでは」と話した。
藤蔭会は1904(明治37)年に組織され、戦争で中断したが、82(昭和57)年に復活の第1回を開催。コロナ禍前の2019(令和元)年までに38回開かれた。
千人もの出席者を収容できる宴会場が市内にないため、1999(平成11)年までは、特別に借りた旭化成体育館で開催していた。その後は宴会場に移り、規模は徐々に小さくなってきていたが、直近の19年も150人が集っていた。
「コロナで開けなかった間に、鬼籍と施設に入られた方が多いけど、このままうやむやにはしたくない」と寺原会長。復活藤蔭会の初代会長だった平野ツルさん(故人)が「最後の2人になるまでやってね」と話していたこと、前会長の酒井宗喜さん(34回生)もそれを受け継いでいたことを伝えた。
出席者からは「『最後の2人まで』は難しい」との意見も出たが「こうして集まって、話をするだけで元気になる」とは、全員が実感。この日も女学校時代や戦時中の思い出話が次から次へとあふれ出た。
41(昭和16)年に開校した市立高等女学校との合併で生徒が急に増えたため、寺原会長ら専攻科の生徒たちは、8カ月間、内藤邸の200畳の広間で授業を受けたという。
他に「女学校のお作法室は、お殿様がご自分の御書院をコンパクトに縮めた造りだったので美しかった。トイレも畳敷き。周りには廊下があって、欄干には擬宝珠(ぎぼし)が付いていた」「講堂には、とてもきれいなガラスが入っていた」「講堂とお作法室の間には木が植えられていて、あれは日本庭園だったそうですよ」など。しかし、延岡大空襲で校舎が焼失したため、仮校舎しか知らない44回生は、しきりにうらやましがった。
戦時中の話は、学徒動員で風船爆弾や弾を造った、機銃掃射を受けた経験など。「戦争はもう絶対にしちゃいけない。子どもにはまず、近代史を教えるべき」などの声が聞かれた。
同校は1876(明治9)年創設の女児教舎に始まり、1901(同34)年に私立延岡女学校、29(昭和4)年に県立となり、戦後の学制改革で48(同23)年に県立恒富高等学校(のちの延岡高校)と県立岡富高等学校に分かれた。女児教舎時代の1891(明治24)年から、県に移管されるまで延岡藩主内藤家が経営していたことから、藤蔭会は、最後の藩主政擧公の命日には墓前祭(台雲寺)を、秋の彼岸には城山北大手門脇の内藤家墓所の清掃を続けるなどしている。