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高千穂鉄道の思い出

本紙掲載日:2021-02-05
7面

酒井義弘さん(延岡市北方町)に聞く

◆災害のたび深夜の点検−安全運行支えた保線員

 国の重要文化財に指定された旧高千穂鉄道の「旧綱ノ瀬橋梁(きょうりょう)」と「旧第三五ケ瀬橋梁」。延岡市北方町在住の酒井義弘さん(76)は、国鉄の日之影線・高千穂線だった時代に線路の点検、補修などを行う作業員(保線員)として幾度となく二つの橋梁に触れてきた。「よくこんな所に橋梁を造ったなって当時は思ってましたね」。酒井さんに思い出を聞いた。

 高千穂鉄道の歴史は、1935(昭和10)年に国鉄日之影線として延岡―日向岡元間が開通。39(同14)年に日之影までが全通、72(同47)年に高千穂まで延伸して高千穂線となった。その間、亀ケ崎―槙峰間に架かる綱ノ瀬橋梁は37(同12)年、日向八戸―吾味間の第三五ケ瀬橋梁は39(同14)年に完成した。

 酒井さんは同市細見町出身。父親の知り合いに誘われ、臨時で日向岡元駅の線路の補修を手伝っていたこともあり、64(同39)年に19歳で国鉄に入社。最初の配属が線路の点検・補修を担う「線路班」だった。

 酒井さんによると、日之影線時代は線路班の拠点が日向岡元、川水流、槙峰にあったが、高千穂線となってからは槙峰の拠点が日之影に移った。酒井さん自身は、日向岡元の線路班で4、5年務めた後は一度、延岡に移った後に川水流へ。高千穂線が完成した際に日之影へと行き、55年間の保線員人生のうち、15年近くを高千穂線関係で過ごした。

◇鉄橋の造り方が一つずつ違う

 「八戸ダムの上に第三五ケ瀬橋梁が架かっているでしょ。ようこんな所に橋梁を造ったね、って当時は思ってましたね。日之影線のように鉄橋の造り方が一つずつ違っているっていうのは日本で初めてだ、って先輩から聞いたこともあります」。今回重要文化財に指定された二つの橋梁だけでなく、深角―天岩戸間には水面からの高さ105メートルと当時日本一だった高千穂橋梁もある。

 「高千穂橋梁は列車が通る線路の30メートルぐらい下の所に検査道があるんですよ。幅が1メートルほどで片方にしか手すりがなかったけど、みんなが珍しがって検査道を歩いたりする人が出てきた。『これは危ない。転落したら大変じゃ』ってなって、両方に手すりを付けるようお願いしたんですよね」と振り返る。今でも検査道の両側に付けられた手すりが確認できる。

 保線員の主な仕事は、受け持ち区間を点検し、必要に応じて枕木、砂利、レールの補修や交換など。最も大変だったのが梅雨や台風の時期の災害だったという。

 台風が来ると分かれば作業場に泊まり込み、始発前のまだ暗い時間帯に区間内を点検する。「モーターカーがある時はいいけど、故障している時はガス灯をぶら提げて行った。だけど風も雨も強いからすぐ消える。再点火しようにも水は入るし、マッチはつかないし大変。だから、手に持った棒を線路に沿わせて歩いたこともありますね」

 特に思い出すのは71(同46)年の台風災害。夜に北方町の下渡付近を点検中のことだった。「昔のライトだから照らしても分かりにくくてね。先輩と2人でモーターカーで行っていたら『どうかおかしいね』って言うんです。そしたら、山崩れで線路が流されてしまっていた。すぐに戻って報告したけど、ああいうことが多かったねぇ」。厳しい環境下での作業は常に危険との隣り合わせだったという。

 酒井さん自身は転勤で高千穂線を離れたが、路線はその後、87(同62)年の国鉄民営化でJR九州の高千穂線となり、89(平成元)年に、県や沿線5市町などの出資で第三セクター「高千穂鉄道」として再出発。2005(同17)年の台風14号で大きな被害を受けたことが原因で経営を断念した。酒井さんは「高千穂線はカーブがやたら多いし、災害の対応は大変だった。けど、利用してくださる方が無事に通勤や通学できたことを考えると、朝早くから点検していたことが良かったと思う」と、在りし日の高千穂線に思いをはせた。

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