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延岡工場(こうば)歌

本紙掲載日:2022-04-13
8面

工都延岡の活気歌う−人気の歌手や作曲家を起用

◆1936年発売「延岡工場(こうば)歌」

 創業100周年を迎える旭化成が、化学メーカーとして最初の成長期を迎えていた1936(昭和11)年、次々に新設される工場と活気あふれる工都延岡を歌った「延岡工場(こうば)歌」がコロムビアから発売された。昭和天皇延岡行幸(1935年)の1周年を記念し、当時の延岡新聞社が企画。市民から歌詞を募り、人気の歌手や作曲家を起用してレコード化するという豪華な内容だった。

◆作詞は地元の立木迪雄さん

 公募で採用されたのは、旭化成の前身である日本窒素火薬に務めていた立木迪雄(たちき・みちお)氏。元教師であり、地元俳壇にも名を連ねた人物で、エンジンやサイレンが鳴り響く工場の喧騒(けんそう)、昼夜問わず動き続ける職人たち、増産続きで熱気に満ちた工都の様子を全4番の詩で表現している。

 曲を付けたのは、NHK連続テレビ小説「エール」(2019年放送)で主人公のモデルとして知られ、1934年発表の宮崎県民歌の制作にも携わった作曲家の古関裕而氏。歌っているのは「イヨマンテの夜」で知られる昭和民謡の名歌手で、同郷の古関氏とも親交深かった伊藤久男氏。

 レコードは200枚ほど発行されており、現存数は不明。延岡工場歌とともに、同企画で制作された「延岡小唄」(作詞・二宮蒼天、作曲・大村能章、唄・音丸)も収録されている。

◆20年ぶりの曲との再会−立木さんの長女

 現存する数少ないレコードのうち1枚は、宮崎市でギャラリーを経営する土持孝博さん(66)が所有。土持さんと長年親交のある笠江洋子さん(69)=延岡市出北=は昨年、本人から「(同レコードを)オークションで入手した」と連絡を受けたという。

 延岡ガイド・ボランティアの会に所属する笠江さんは、「ぜひガイド活動の中で紹介し、延岡の人たちに聞いてもらいたい」との思いから、土持さんから録音CDを譲り受けた。

 レコードの話はCDと共に、笠江さんからガイド仲間の久富熊雄さん(81)=同市若葉町=や貫笑美子さん(72)へ。間もなく貫さん方の近所に住む立木さんの長女・井上寿美さん(86)にまで伝わった。

 旭化成延岡OB会の会員でもある久富さんと貫さんは、「4番の歌詞にある『十指』は工場の数を表したもの。拡大期にあった当時の旭化成の活気がよく伝わる歌になっていると思います」と話す。

 井上さんは「曲を耳にしたのは20年ぶりくらい。とてもうれしい再会になった」とにっこり。笠江さんらは「『エール』の放送や土持さんのことも含め、さまざまな縁が生んでくれた夢のような話」と喜んでいる。

◆「ご縁に恵まれ幸せ」井上さん

 井上さんによると、立木さんは1909年延岡市生まれ。旧制延岡中学校を卒業後、港小学校や南方小学校で教職に就き、1931年に23歳で当時の東海火薬工場に入社した。俳壇では「立木紅葉城(たちき・こうようじょう)」の名で活躍していたという。延岡工場歌のレコードが発売された1936年に北朝鮮に転勤。その後現地で病を患い、1943年に35歳の若さで亡くなった。

 以前所有していた延岡工場歌のレコードは、修復不可能なほど劣化が進んだためやむなく廃棄したという井上さん。完品の再入手が非常に困難であることは分かっており、同曲との再会は半ばあきらめかけていたという。

 「久富さんからCDを分けていただけると聞いた時は本当にびっくりしました。久しぶりに曲を耳にし、リンゴ畑の風景や父が作ってくれたソリのことなど、発売当時に住んでいた北朝鮮での暮らしが思い返されました。父が亡くなって70年近く。これほどのご縁に恵まれて幸せです。快く録音CDを提供してくれた土持さんはもちろん、話をつないでいただいた皆さんに感謝しています」と話した。

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