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延岡中に慰霊碑−栗田彰子先生をしのぶ

本紙掲載日:2023-06-30
3面

延岡大空襲−校舎の消火作業中焼夷弾直撃し殉職

◆全校生徒、平和について考える

 延岡市立延岡中学校(粟田茂樹校長、282人)は29日、延岡大空襲慰霊祭を行った。カナダ出身で、同空襲時の校舎の消火活動中に殉職した栗田彰子先生をしのび、戦争と平和について考えた。

 同校体育館を会場に行われ、ステージ上には栗田さんの肖像画や祈り鶴などで飾り付けた慰霊台が設けられた。全校生徒と教職員、栗田さんの遺族ら来賓4人が出席した。

 粟田校長は、栗田さんがピアノと英語が堪能で、優しい人柄で多くの人に親しまれていたことに触れ、「海外では今でも戦争が起こっています。78年前に延岡で同じようなことがあったという悲劇に思いをはせて、自分のこととして真剣に平和について考えてほしい」とあいさつ。出席者全員で約30秒間、黙とうをささげた。

 生徒を代表して慰霊の言葉を述べた生徒会副会長の白石虎輝(こうき)さん(3年)は栗田さんが持っていた夢と生涯を振り返り、「78年という時間は出来事を風化させてしまいますが、昨年2月から続くロシアのウクライナ侵攻に目を向けると、決して『昔の出来事』ではないという現実を思い知らされます」とした上で、「この慰霊の日に史実に学び、全校生徒で平和の尊さや戦争の愚かさについて深く考え、世界平和実現のために努力することを誓います」と決意を新たにした。

 来賓として出席した栗田さんのいとこの長男、白石智さん(66)=宮崎市=は「学校の行事として慰霊祭を毎年行ってくれることが本当にありがたい。平和は誰かが語り継がないとなくなってしまう。平和とは、自分とは何かを考えてこれからの学びに生かしていただきたい」と話した。

 また、今年2月に93歳でこの世を去った栗田さんの弟・ピーターさん(カナダ)が生前に延岡中の生徒に残したというメッセージを紹介。「姉はすべての人を愛していた。きっと姉が皆さんに言葉を贈るなら、すべての人を愛しなさいを言うでしょう。愛、それが姉の答えです」。栗田さんのいとこの長女の義妹・荒武千穂さん(65)=宮崎市=が英語で書かれた原文と日本語訳したものを代読した。

 この後、来賓と粟田校長、生徒会役員が献花。慰霊祭後には、校門のそばに立つ慰霊碑前で礼拝をした。


◇カナダバンクーバーから日本へ

 栗田さんは、カナダのバンクーバー市生まれ。教員になるという夢を持っていたが、当時のカナダには日本人差別があり、日本人は大学に入学できても、教員免許を取得することができなかったという。そこで栗田さんは、教員になるため来日。研修を兼ねて延岡にある母の実家に身を寄せながら、延岡高等女学校専攻科を経て、宮崎女子師範学校(現宮崎大)に学んだ。1941年、延岡市安賀多国民学校(現延岡中)に赴任し、その人柄と熱心な教育で生徒、保護者から信頼を集めた。45年6月29日の延岡大空襲の際、学校での消火活動中に頭部に焼夷(しょうい)弾の直撃を受け殉職した。25歳だった。


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