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神武天皇は県北にいた−宮照雄三重大学名誉教授
◆笠狭之御碕の笠狭は「鹿佐佐」−「皇之城(おおのき)」が「大貫」に転訛
吾田(あた)の邑(むら=現在の延岡市)の女神である木花咲耶姫(このはなのさくやひめ)と瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が出会った笠狭之御碕(かささのみさき)についてお話ししましょう。
「日本書紀」では、木花咲耶姫を神吾田鹿葦津姫(かむあたかしつひめ)、豊吾田津姫(とよあたつひめ)と記します。吾田津姫は「吾田の邑の姫」と容易に理解できます。木花咲耶姫は吾田長屋の笠狭の御碕に住んでいました。長屋は長い屋根のような地形をいい、現代的には海に突き出た半島を示すため、吾田長屋は吾田半島と解することができます。御碕は現代の岬であり、海に突き出た半島の突端です。
天下(あもり)の地に宮を構えた瓊瓊杵尊は吾田の長屋の竹嶋に登ります。その竹嶋の山頂から、木花咲耶姫が機織りする八尋(やひろ)の御殿が見下ろせた。瓊瓊杵尊は、事勝国勝長狭(ことかつくにかつながさ)に「秀起(さきた)つ浪穂の上に、八尋殿を建てて、手の玉飾りきらきらと機織る少女は、これ誰が子女か」と聞くのです。
「竹嶋」は、吾田半島にあるので船で行かなければなりません。古代では船で至るところは嶋と表現されました。竹嶋は小竹(ささ)が生える小高い小山といえます。その山頂から木花咲耶姫が手玉きらきらと機織りする八尋殿が見下ろせたのです。
そこで笠狭の語義を考えると、「笠狭」は諸国郡郷名著好字令(元明天皇和銅6年)に則(のっと)った地名であり、「かささ」の原語は他にあるとすべきです。竹嶋の山の下の平地には笹原(ささはら)がひろがり、そこに八尋殿が建っていた。古代では、「鹿(か)」を山の「麓」という字義で使用しました(京都の金閣寺は鹿苑寺〈ろくおんじ〉で、大北山の「ふもと」に立つので鹿苑寺と名付けられた。動物の鹿には何ら関係はない。「ふもと」の字義をもつ「鹿」は「室町時代」まで使用されたのです)。
竹嶋のふもと(鹿)に笹原があることから「鹿笹」とつくられ、そこが岬であったので鹿笹岬となったと推察できます。ところが、「笹」は日本人が作った国字であり古代に「笹」という漢字はありませんでした。
考えるに「鹿佐佐」が原語であり、諸国郡郷名著好字令に則って「笠紗之御前」「笠狭之御碕」と「記・紀」に記された、と結論できます。
木花咲耶姫の別名「鹿葦津姫(かしつひめ)」も原語は地名によった「鹿佐佐の姫」であったと推察されますが、「笹」が使用できないことから「笹」によく似た姿を持つ「葦」をあてて「鹿葦津姫」と作ったといえます。そして、御碕の浜で瓊瓊杵尊と鹿葦津姫は出会うことになるのです。
現在の地理では、大瀬川と沖田川に挟まれた平野部に愛宕山とそれに連なる低い山並みがあります。吾田長屋(吾田半島)のなごりなのです。この愛宕山(標高251メートル)が「長屋の竹嶋」と比定できます。
一方、「愛宕神社御由緒」に「慶長年間に延岡城を築城する際に、城山の一角にあった愛宕神社を笠沙の岬に移転させたので、以後、愛宕山というようになった」とあります。
また、延岡藩主の有馬康純公が「ほととぎすはれぬおもひをさみたれの雲のかささの山になくらむ」と詠んでおり、愛宕山が「笠沙の岬」、または「かささの山」であったことが分かります。
さらに、愛宕山周辺には貝塚や古墳群の遺跡が複数存在しており、地名も「かささ」から転訛(てんか)した「片田(かただ)」、「皇之城(おうのき)」から転訛した「大貫(おおぬき)」そして瓊瓊杵尊が「天下り」した「天下」などがあります。
吾田の笠狭御碕(笠紗御前)は、後世の笠沙山であり、現在の延岡市の愛宕山とすることが、日向神話の地理観に整合するといえます。