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佐藤航希−「延岡の力」で逆転V−学生、県北出身…歴史的快挙
第61回延岡西日本マラソンは12日あり、延岡市出身の早稲田大3年佐藤航希選手が大会歴代2位の好タイムで、初マラソン優勝。旭化成勢は2位に村山謙太、5位に松尾良一。國司寛人は11位、一般参加の山本修二は途中棄権した。同市出身の青山学院大4年畦地貴斗は14位、五ケ瀬町出身の創価大4年甲斐治輝は66位で完走。延岡市在住1位は15位に入った田邉雄也(旭化成延岡)で、女子は足立結香(福岡陸協)が優勝した。スタート直前の午前8時30分の気象は晴れ、気温6・6度、湿度91%、西の風2メートル。先頭のゴール直前の風も1・4メートルと絶好の条件で行われた。
1月遅れの帰省は、凱旋(がいせん)に変わった。「小さいときから沿道やテレビで見ていた大会。先頭に立つまでずっと足は重かったが、応援もあって、延岡に入ってから軽くなった」。「W」を胸にした地元のホープが、軽やかに実業団選手を打ち破った。
南方小5年の時に南方14日リートで陸上に出合い、西階中では、県内トップ選手。宮崎日大高では都大路にも2年連続で出場し、早稲田大に進学した。
大学1、2年時は故障がちで苦しんだ。昨年6月に就任した花田勝彦監督は「前半、気持ちで行き過ぎて、後半崩れるレースが多かったよう。レースをトータルで考えられるようになった」。本人も「トレーナーさんにケアをしていただくなどし、故障が少なくなった」。
地道に練習を重ね、監督が「スタミナはチームで一番」というほどに。4区区間6位と好走した箱根駅伝の後、多くの選手が帰省する中、「ホーム感に浸りたくなかった」。大学に残り、ここに備えた。
「先頭について勝負することだけ考えていた」。かつて見ていた今大会の中継で、解説者が「旭化成の選手以外には延岡に入ってからが、遠く感じる」と話していたのを覚えている。だから、地元出身の自分は有利だと、思っていた。
30キロすぎに旭化成勢が加速した場面では、果敢に追う。苦しくはなったが、「挑戦の代償は払う」と我慢。村山が独走態勢に入っても「前が見える位置で追う」と、実業団選手を従えた。
そして、市街地が近づくと「延岡の力をもらえた」。先頭に躍り出る。
関係者の話を総合すると、おそらく延岡市出身者では初、県北出身者では第2回(1963年12月)の広島日出国さん(当時旭化成・現美郷町出身)以来、学生としては第4回(1966年3月)の采谷義秋さん(当時日本体育大)以来の優勝という歴史的な快挙だった。
「この1年はスタミナを強化し、距離は長ければ長い方が得意。走力は劣る中、気持ちで勝てた。村山さんと真っ向勝負をして勝ったわけではない」とあくまで謙虚。「しばらく休んで、トラックなども生かしながら走力を上がれば、上の舞台を目指せる」。たくさんの副賞は、「お世話になっている人たちへ」。すごいお土産になった。
◆村山(旭化成)−わびながらフィニッシュ
地元のファンが待つフィニッシュ地点に両手を合わせ、わびるように飛び込んだ村山謙太。「自分の弱いところが出た。スパートして負けたらしょうがない」。淡々と振り返った。
前半から自重するように、先頭集団の後方に待機。「38キロから勝負」と決めていた。ペースメーカーが外れて30キロすぎ。ペースが落ち、給水で集団ばらけたところで、勝負に出た。
「(後続は)付いてくるのは分かっていたので、足を使わせようと思った
が」。40キロ手前で、学生に交わされた。
最後の2位争いは意地を見せ、海外派遣の権利は確保。「また、段階を踏んで頑張ります」とかみしめていた。
◆松尾(旭化成)−「ありがとう」
「ありがとう」―。思いが込められたような拍手を受け5位に入った松尾。「感極まりそうになりながら、笑顔で走り切った。最後が一番気持ち良く走れたと思う」と、すがすがしい表情だった。
特別協賛を務め大きな期待と重圧を受ける今大会の旭化成。2008年以降、なかなか優勝争いに絡めない中で、一人で何度も主役を張った。
3度の優勝に2位と3位が1回ずつ。「ミスター」の称号を受けた男は、8回目の日向路でも最後まで冷静に、粘り強く走りきった。
入社13年目の31歳。3月の東京マラソンを最後に現役を退く。「上の子が小学2年生になる。子どもの記憶に残るまでは走りたい、と思っていたので、目標は達成できたかな」と笑顔。「集大成なので、思いっきり楽しんで走りたい」と最後の大会を見据えた。