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(A4サイズはラミネート加工もできます。ラミネート加工は500円追加) |
L サイズ
(8.9×12.7センチ) |
1枚 300円 |
LL サイズ
(12.7×17.8センチ) |
1枚 500円 |
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1枚 1,200円
(ラミネート加工は300円追加) |
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元厚労省職員椎葉茂樹さん−昨年9月、県福祉保健部参事に就任
◆生まれ故郷で第2の人生
元厚生労働省職員で医師の椎葉茂樹さん(59)が昨年9月1日付で、県福祉保健部参事に就任した。椎葉村出身。同省を同年6月に退職し、「ふるさと宮崎のために貢献したい」との思いから生まれ故郷で第2の人生をスタートさせた。宮崎への思い、これからの抱負などを聞いた。
◇医学図鑑と顕微鏡で見た血液−医師を志すきっかけに
−−医師を目指したきっかけ、厚生労働省に入省した理由は。
1963年2月に椎葉村で生まれました。椎葉小、椎葉中に通い、小さい頃から本が好きでした。小学校1年生の時に父から医学の図鑑を買ってもらったこと、村立病院の先生から顕微鏡で血液を見せてもらったことが、医師になるきっかけになったと思います。
中学生の頃に作家には医師出身が多いことに気付き、医師になって作家になるという根拠のない将来像を抱きました。高校は宮崎西高で、宮崎市内に下宿して通いました。卒業後は北九州市の予備校で浪人をしました。このとき出会った宮崎出身の先輩が連れて行ってくれた市内の産業医大に進学しました。
大学は新設で、これから歴史をつくるんだという魅力ある先生がたくさんいました。公衆衛生学の教授から厚生省が医師資格を持つ行政官(医系技官)を募集していると連絡があり、6年生の夏休みに行きました。衛生学の助教授だった先生が厚生省に勤務されており、若手医系技官を紹介してくれました。政策立案、予算要求、国会対策、マスコミ対応など初めて聞く話で大変面白く、その場で厚生省に行くことを約束しました。
1988年4月に厚生省に入省します。すぐに労働省に出向になり、関東労災病院で1年間臨床医をさせてもらいました。青森県むつ保健所、富山県厚生部、環境省、防衛省にも出向しました。最後の勤務は関東信越厚生局です。昨年6月末に退職したので34年3か月の勤務となります。
この間、労働基準局安全衛生部には係長、課長、部長と3回にわたって計6年勤務したので、思い出が多く残っています。労働者の安全と健康を守る部署です。1972年に労働安全衛生法が成立しました。法律ができる前は年間約6千人が労働災害で亡くなっていましたが、法施行後は半分になり法の効果を思い知らされました。
私が安全衛生部長をしていた2019年には900人を下回っています。職場の安全衛生はトップの意識で変わります。災害はゼロでなければならないというゼロ災運動を展開していきたいです。
◇地域医療−コロナ対策に従事
−−ふるさとの宮崎勤務を希望した理由は。
50歳を超えてから懐かしくなって宮崎についていろいろ調べるようになりました。厚労省的に見て、宮崎には魅力のある人物が3人います。
まず、児童福祉の父の石井十次です。高鍋町出身で、医師を志して岡山医学校で学びますが、困窮する母親の子どもを預かったことがきっかけで、児童福祉の道を歩むことを決意します。医学書を焼いて孤児院を開設しました。実業家大原孫三郎の支援も得て、多くの孤児たちの面倒を見ます。
次に、実験疫学の父・高木兼寛です。高岡に生まれ海軍軍医となり、航海実験での成果をもとに米食から麦やパン食に変更して海軍でのかっけのまん延を防止しました。東京慈恵会医科大学を創設し、日本で最初に看護師の養成校をつくりました。
最後に若山牧水です。日向市坪谷の医家に生まれ、そのまま家を継げば、若山繁という村医者として終わったでしょう。延岡中学で文学に触れて歌人となった牧水は、その歌によって多くの人に安らぎを与えています。
このような人を生んだ宮崎県は半端ないです。退職したら故郷に帰ろうと決めました。宮崎県庁が、公衆衛生医師を募集していて良かったです。
−−現在の仕事や職場の雰囲気を教えてください。
新設された防災庁舎の2階で、主として地域医療対策や新型コロナウイルス感染症対策に関わっています。保健所や病院、市町村、宮崎大学や県医師会などの外部の専門家の方々とやり取りしながら進めています。
1883年に宮崎県を復活させた川越進翁の碑の前で、知事、県会議員、県職員、子孫の方が集まって献花をして、みんなで県民歌を聞きました。歴史を大事にしていると思いました。
◇宮崎は医師少数県−確保対策、魅力的な道筋を
−−抱負や取り組んでみたい仕事はありますか。
医師確保対策です。厚労省の基準によると宮崎県は九州で唯一の医師少数県です。現在、宮崎大学医学部に40人の地域枠が設けられています。地域枠の学生に伴走しながら、医師となった後に県内の医療機関で定着して働いていただけるような魅力的な道筋を、宮崎大学や県医師会、各自治体、各医療機関、地域と一緒になってつくっていきたいと思います。
日本のひなた宮崎県が地域医療の発祥の地となれるようにオール宮崎で取り組んでみたいと思います。
−−趣味や特技、宮崎で挑戦したいことは。
趣味は本を読むことと本の原稿を書くことです。宮崎で挑戦したいことは、子どもの頃からの夢だった作家になることです。東京では小説教室に入って勉強していました。教室からは、宮崎出身の新川帆立さんがデビューしています。
宮崎に帰ってからは、高校の後輩の漫画家東村アキコさんの「かくかくしかじか」をバイブルにして、「描け!描け!書け!」とつぶやきながら毎夜、自宅でパソコンのキーボードをたたいています。当面の目標は、これまでの厚労省や防衛省での経験を踏まえて、公衆衛生、労働衛生、軍陣衛生の「衛生の教科書三部作」を完成させることです。
次の目標は、宮崎を舞台にした歴史上の人物やエピソードを物語にした小説を書くことです。宮崎県出身の直木賞作家はいません。目標にしたいと思います。
【椎葉茂樹(しいば・しげき)】
椎葉村出身。椎葉小、椎葉中、宮崎西高卒。1988年3月に産業医科大学医学部を卒業し、同年4月に厚生省採用。厚生労働省の健康局がん対策・健康増進課長、大臣官房審議官、労働基準局安全衛生部長、防衛省大臣官房衛生監、厚生労働省関東信越厚生局長などを歴任し、昨年6月に同省を退職。同年9月から現職。趣味は魚釣り(渓流釣り)など。59歳。