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LL サイズ
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1枚 1,200円
(ラミネート加工は300円追加) |
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延岡から被災地に派遣−日赤看護婦2人に召集状
関東大震災から9月1日で100年。1923(大正12)年9月1日午前11時58分に発生、死者・行方不明者は推定10万5千人。日本では明治時代以降、最大規模の被害を出した。
マグニチュード7・9の激しい揺れで建物は次々と倒れた。昼食の支度の時間だったこともあり一斉に火の手が上がり、台風の強風によって東京全域がたちまち炎に包まれた。
震災直後から被災者の救護活動が始まった。この未曽有(みぞう)の大震災発生の直後、延岡から被災地に派遣された女性が2人いる。猪熊トシさんと長濱イワさんである。
2人は、香川県の日本赤十字社香川支部病院の養成所で3年間学び、22歳の時に日赤の救護看護婦になった。その半年後、関東大震災が起きる。
日本赤十字社は、戦地傷病兵救護を目的に創設。看護婦には応召義務があり、戦争が起きると「戦時召集状」、災害時などは「救護召集状」が届き、日赤の都道府県支部に召集された。
猪熊さんには、震災から5日後の9月6日に召集状が届いた。翌日、延岡を出発。11日から東京の臨時病院や救護所で約1カ月半にわたり負傷者の救護活動を行った。
長濱さんについては長男の敏行さんが「テントで暮らしながら被災者の救護活動に従事。その際、支援に来ていたアメリカ班から毎日支給されるパンのおいしさが忘れられないと言っていた」と母親から聞いた思い出を回想記に書いている。
◆震災の次は戦争
関東大震災から14年後の1937(昭和12)年、日中戦争が始まり、今度は2人に戦時召集状が届く。家族を残して出征した。
長濱さんには9歳の長男、6歳の長女、2歳の次女がいた。妻の従軍の間、郵便局に勤める夫が一人で育てた。翌年、長濱さんはかっけのため除隊して自宅に戻ったが、次女は5歳で病死した。
猪熊さんは、夫の病死からわずか2カ月後に戦時召集状が届く。急いで8歳の長女と6歳の長男を親戚に預け、慌ただしく出征。中国戦線で負傷した兵士を治療しながら日本に連れ帰る病院船部隊の一員となった。
その間の出来事を日記に書いている。初めて中国の土を踏んだ時、上海で見た無残な戦争の跡をこう記した。「関東大震災を思い出す。あれ以上の惨たるものである」
その後、猪熊さんには2回の戦時召集状が届き、広島の陸軍病院と佐世保の海軍病院で看護婦として働いた。
太平洋戦争の終戦から5年後、朝鮮戦争が勃発。今度は「国連軍救護召集状」が届く。日赤宮崎支部長名で「福岡支部長の要請により貴下を派遣することになったので出頭せよ」とある。猪熊さんは応じなかった。
看護婦に戻ることもなかった。長女の高橋美代子さんによると「あまりにも血を見すぎたから」と言っていたという。