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6歳の目で見た戦争

本紙掲載日:2021-07-16
6面
オンラインで講話した池田道明さん。柔らかな口調ながら、生々しい体験を淡々と語った
生徒たちは静かに池田さんの声に耳を傾けた

被爆者・池田さん体験語る−大王谷学園中等部

◆長崎原爆のその日のこと

 将来を担う子どもたちに戦争の悲惨さや原爆の恐ろしさ、平和の尊さを伝えようと日向市は6日、同市の大王谷学園中等部(三樹和幸校長、287人)で被爆者の声を聞く被爆体験講話を行った。6歳の時に被爆した池田道明さん(82)=長崎県長与町=が「6歳の目で見た戦争の悲惨さと、いかに平和が大切であるかを伝えたい」と、柔らかな口調ながら淡々と生徒たちに語った。

 日向市は1985年に非核平和都市を宣言しており、同体験講話は2004年度から、被爆者を招き市内中学校などで実施している。昨年は新型コロナウイルスの影響で中止されたが、今年は国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館(長崎市)と同学園をオンラインでつなぎ、中等部1〜3年生が各教室で池田さんの声に耳を傾けた。

 池田さんは当時、国民学校の1年生。母親は原爆の爆心地から700メートルの場所にあった長崎医科大学付属医院で、付き添い婦として住み込みで働いていた。学校が夏休みに入ったため、池田さんは母親と一緒に同医院に寝泊まりしており、母親が入院中だった同じ1年生の「シゲちゃん」とすぐに仲良くなったという。

 1945年8月9日のその日も、いつものように2人で4階の屋上に上がり、爆弾の破片を探して遊んでいた。すると、トイレに行きたくなったシゲちゃんが「下りよう」と言いだした。まだ小さな破片しか探し出せていなかった池田さん(ミッちゃん)はまだ下りたくなかったが、「これあげるから」とシゲちゃんから大きな破片を差し出され、しぶしぶ一緒に下りることにした。

 エレベーターに乗り込み1階に到着。午前11時2分、扉が開き1歩踏み出した瞬間、暗い廊下がピカッと光り、爆風に吹き飛ばされた。

 一瞬気を失ったが、パチパチと燃える音や焦げ臭さでわれに返った。立っていたはずの廊下の板は爆風でめくれ上がり、むき出しになった地面の上に倒れていた。すぐに「シゲちゃーん」と呼んだ。すると、暗闇から「ミッちゃーん」とシゲちゃんの声が返ってきた。ただ、どこにいるのかは分からなかった。

 炎が迫っているのを感じ「ここは危ない。逃げよう」と、ガラスが吹き飛ばされた窓枠から中庭に飛び降りた。そこは火の海だった。黒焦げになった人、飛び出した眼球が頬にくっ付いている人、上下の唇がめくれ上がった人…。そんな惨状の中、池田さんは夢中で走り、同医院の裏山に駆け上った。

 皮膚が焼けただれ、垂れ下がった人たちが「まるでお化けのように両手を前に差し出し、次々に山に向かい歩いてきて、次々に力尽きて倒れていった」。途中、おんぶしていた赤ちゃんが死んでいるのに気付き大声で泣いている母親に会った。大声で泣く大人の姿を初めて見た池田さんは、ただおろおろするばかり。でも、そばを歩く大人たちは誰も声を掛けようとはしなかった。「戦争は人の心を変える」と振り返った。

 見知らぬ大人たちに交じり山で夜を迎え、翌朝に下山。同医院に戻り、無事だったシゲちゃんや、けがを負った母親らと再会した。その後、池田さんの母親は一命を取り留めたが、シゲちゃんの母親と祖母は亡くなった。後から分かったことだが、シゲちゃんの父親は既に戦死していたため、シゲちゃんは6歳で独りぼっちになってしまった。

 池田さんは長崎市郊外の親戚宅に身を寄せることになり、同医院を出ることになった。それきりシゲちゃんとは会えないままだ。2008年に「シゲちゃんを探しています」と新聞数紙で情報を募ったところ、「シゲちゃんを知っている」という人から連絡があり、足取りは少しつかめたものの、消息は不明という。

 「戦後76年を迎えますが、この間、地球上で原爆は使われていません。でも今、地球は平和と言えるでしょうか。今も地球のどこかで戦争が続いています。戦争さえなければ原爆が投下されることもなかったし、シゲちゃんだって独りぼっちにならずに済んだのです」と池田さん。戦争だけでなく貧困、抑圧、差別などもない「積極的平和」な社会を望んでいることを、生徒たちに伝えた。

◇言葉では言い表せない感覚、初めて−立花さん

 生徒会長の3年生・立花優芽さんは「被爆した時の情景や人々の様子を聞いて、言葉では言い表せないゾクッとするような、胸が痛くなる感覚を初めて覚えました。もし私がこの状況の中にいたらと考えると本当に怖い。でも、つい76年前の出来事です。もしかすると戦争は簡単に起きてしまうのかもしれません。将来に希望を持っていた人たちの命を一瞬で奪う戦争は絶対に起こしてはいけないし、平和は当たり前ではないのだと改めて感じました」と感想を語った。

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