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延岡大空襲−1945年6月29日

本紙掲載日:2022-06-29
1面
犠牲者の冥福と平和を願った延岡大空襲の殉難者慰霊法要(29日、延岡市の今山大師銅像広場)
殉難碑に手を合わせる園児ら
焼香して殉難碑に手を合わせる参列者

一瞬のうちに火の海に


◆今山大師殉難碑前で慰霊法要

 1945年6月29日の延岡大空襲から77年を迎えた29日、市街地を一望する今山大師銅像広場の「延岡空襲殉難碑」前で慰霊法要が営まれ、参列した遺族や園児らが犠牲者の冥福と平和を願った。

 午前10時、今山大師の鐘の音に合わせて一斉に黙とう。野中玄雄住職ら市仏教会の僧侶がお経を唱える中、参列者は殉難碑前の祭壇で焼香して静かに手を合わせ、わか葉幼稚園(北町)の年長児28人が色紙で作った花を手向けた。

 山本一丸副市長による市長メッセージの代読、本部仁俊市議会議長のあいさつに続き、澤野幸司教育長は「市民のみならず子どもたちへ(延岡大空襲を題材とした)平和学習を続けることが、犠牲になられた多くのみ霊に対して応えることになると思う」と、市として後世へ語り継いでいく決意を述べた。

 当時を体験した人たちも年々高齢化して参列者は減少しており、29日出席した被災者や遺族は9人。このうち、小学4年生の時に野地町の自宅で被災したという三宅久美子さん(86)=同町=は、近くの防空壕(ごう)に身を隠して家族は無事だったが、大貫町の叔父夫婦と1歳の長女が大やけどを負ったことを涙ながらに振り返り、「今も世界中で戦争が起こっているが一日も早く平和が訪れてほしい」と願った。

 北九州の戦争を記録する会が発刊した「米軍資料・北九州の空爆」などによると、延岡にはグアムから米軍B29爆撃機105機を中心とする117機が飛来。29日午前1時46分の閃光(せんこう)弾投下から同3時17分までの91分間にわたり、38本を束ねた500ポンド集束焼夷(しょうい)弾2415発、100ポンド油脂(ナパーム)焼夷弾1万32発、閃光弾50発=いずれも出撃前後の差し引き=を投下したとされる。

 延岡市史などによると被害は――死者318人▽重軽傷者多数▽被災面積3042平方キロ▽被災人口1万5232人▽被災戸数3765戸――に上った。当時の市の人口は7万2600人で、約2割もの市民が被災した。

 殉難碑は延岡市議だった故市山幸作さんが中心となって準備し、78年に建立。碑文には「市中心部は一瞬のうちに火の海になり、その劫火(ごうか)の中を市民は阿鼻叫喚(あびきょうかん)、辛(かろ)うじて五ケ瀬大瀬河原に避難したが、まさに戦争が生んだ悲劇であった。恐怖の一夜が明けると市街地の大半は一木も残さず焼きつくされ、一望焦土と化しているのを市民は茫然(ぼうぜん)と眺めながら肉親をもとめて右往左往するのみであった」と記されている。

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