夕刊デイリー新聞社は、本紙に掲載された写真の提供サービス(有料)をしています。
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写真は本紙記者がデジタルカメラで撮影したもので、新聞紙上では白黒でも提供写真はカラープリントです。
写真のサイズと料金は次の通りです。
▽L サイズ 1枚 300円
▽LL サイズ 1枚 500円
▽A4 サイズ 1枚 1,200円
(A4サイズはラミネート加工もできます。ラミネート加工は500円追加) |
L サイズ
(8.9×12.7センチ) |
1枚 300円 |
LL サイズ
(12.7×17.8センチ) |
1枚 500円 |
A4 サイズ
(21×29.8センチ) |
1枚 1,200円
(ラミネート加工は300円追加) |
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提供できない写真もありますので、まず、本社にお電話をください。
掲載日などをお聞きし写真を確認した上で準備します。
受け渡しは、本社または支社、支局に来社していただくことになります。
写真によっては提供サイズが限られる場合があります。
また、事件、事故、災害、選挙、肖像権に関係する写真や本社に版権のない写真は提供できませんのでご了承ください。
写真は個人的利用に限ります。
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社宅の暮らし
◆浅田京子(70)延岡市長浜町
供給所、大浴場に夏のプール−愛宕、雷管社宅・楽しいことばかり
私の父は1914(大正3)年生まれ。戦争から帰ってきて、30代前半で旭化成に入社しました。日向市の細島から列車で南延岡駅まで行き、そこから旭化成延岡支社に通勤していました。
母は薬品工場の出荷係に勤めていて、知り合ったと聞いています。
私が3歳の頃に、細島から延岡市の愛宕社宅に移り住むことになったようです。現在、旭化成柔道場がある周辺です。
私は58(昭和33)年、旭化成の向陽幼稚園に入園しました。愛宕社宅から歩いて通いましたが、小さい足では遠かったなあと思います。女性だけが入る報徳寮が目の前にあり、中学を卒業したばかりのたくさんの若い女性工員がおられました。
現在支社があるところは旭化成サービス、その前は旭化成供給所でした。前を通ると、大勢の買い物客の自転車がいっぱい並んでいました。
お風呂は伊達にあり、隣に供給所がありました。毎日通い、3時半に入り口が開くのを待ちました。
愛宕社宅での母の楽しみは、社宅そばにあったコートで、近所の仲間としていたフリーテニス。写真が残っています。
家族のレクリエーションと言えば、門川海水浴場(旭化成の青色の海の家)に社宅のみんなで貸し切りバスに乗って行ったこと、屋外であった夜の巡回映画などです。社宅の皆さんがゴザを敷いて見たことを覚えています。テレビがない頃の話です。日本が豊かになっていった時代で楽しいことばっかり。幸せでした。
60(同35)年2月、雷管社宅に移りました。水洗便所があり、部屋も一つ多くなり、新しくてきれいで、うれしかったです。私は当時小学2年生。3月いっぱいまでは父の自転車の後ろに乗って恒富小まで通い、帰りは雷管社宅まで歩いて帰りました。新年度の3年生から緑ケ丘小に転校しました。
緑ケ丘小はまだできたばかり。校舎が新しくて気持ち良く、何より水洗便所がうれしかった。都会のようと思いました。
雷管社宅前には、旭化成第1浜寮、第2浜寮、真ん中に幼稚園がありました。寮には19、20歳の男性の独身寮があり、全国から来ていました。
また、大浴場、供給所、夏にはプールもありました。セメント製のプールに、塩素の粉をまいて水を入れるところをずっと見ていた記憶があります。子どもがたくさんいる時代です。
供給所の隣には、旭化成の浜診療所がありました。現在、緑ケ丘にある小島医院は、当時の小島先生の長男です。ステンレス製の受け皿による目洗い、おでき(ねぶと)でよくお世話になりました。おできは頻繁にでき、そのたびにペニシリン注射をお尻に打ちました(笑)。
診療所内に歯医者もありました。看護士さんと仲良くなり、ステンレスのコップ消毒や、床掃除など、夏休みにお手伝いに行きました。
雷管工場の正門前や浜幼稚園の前では、盆踊りがありました。小学3年〜中学3年生まで楽しい社宅生活を過ごしました。父は大世話人を引き受けていて、旭の広報の小世話人への配布や、お風呂の入浴券を厚生から頼まれ、売っていたようです。社員やその家族は入浴券を持っていましたが、泊まりに来るお客さんの入浴券はありません。よく近所の人が買いに来て、父の代わりに売るお手伝いをした記憶があります。
雷管の浜幼稚園には、妹が入園しました。家の前だったので通園には良かったと思います。夕方には園舎を借りて、習い事があり、私はそろばんを習っていました。盆踊りの前には練習の会場にもなりました。
テレビも、社宅で買う人が多くなり、「チロリン村とくるみの木」という子ども向けの番組があっていました。散髪屋さんでは、映画「ローマの休日」の影響で、ヘップバーンカットが流行しました。
姉は私より5歳年上で、高校卒業後に旭化成に入社。IBMというシステム管理部に配属されました。父と2人で並んで自転車で通勤する姿がありました。父は娘と幸せそうでした。
雷管社宅は67(同42)年1月までお世話になりました。2月からは、平原町に新築した家に移りました。父の定年も近くなり、長い社宅生活はお別れになりました。今でも忘れられない幼少期でした。
私の父は70(同45)年、55歳で定年退職しました。その後、私は旭化成に入社。「父の後を引き継ぐ」と、60歳の定年まで勤めました。現在70歳。OB会の幹事、代表世話人をしています。
旭化成のおかげで幸せな人生です。旭化成に感謝しています。
◆曲渕雄二(61)門川町栄町
にぎやかだった理髪店−自然豊かな緑ケ丘社宅
1960年、私は緑ケ丘で生まれ、7歳までをこの地で過ごしました。当時の緑ケ丘はそのほとんどが未舗装の砂利道で、川辺には水草が生い茂り、川向こう一面には田んぼ、畑が広がる、自然豊かな場所でした。
現在の延岡工業高校下から延岡保養園までの道路東側は、大部分を旭化成の社宅が占めており、父方の姉弟は社員だったため、ここに住んでおりました。
その中には、社員専用の理髪店、幼稚園、大衆浴場などもありました。私の父は、旭化成の関連会社である「センコー」の社員だったので、私は幼稚園には入園できませんでしたが、理髪店と大衆浴場はよく利用させてもらっていました。
理髪店にはいつも10人くらいの理容師さんがいて、行くたびに、にぎやかだったのを覚えています。行くとおばさんに整理券を渡され、待ち時間は同年代の子たちと走り回ったりふざけ合ったりしては、注意されていました。まだ幼かったので、椅子に座ってジッと待っているのが苦手だったんです。
それこそ、あの当時は子どもが多かったです。社宅に住んでいたのも、そのほとんどが若い社員だったと思います。社宅の間にあった砂場の空き地では、年上の子たちとよく鬼ごっこや野球をして遊びました。
暇を見つけては豚小屋を見に出掛けたり、虫取りをしたり、長浜の海岸端で水遊びをしたりしていましたから、汚れて帰ってくるのはしょっちゅう。当時住んでいた借家に風呂場は無かったので、大衆浴場には毎日通っていました。
場所は、今の緑ケ丘小学校の前あたり。リビング一室分ほどはある大きな浴槽と小さな浴槽の2つがあり、中はとても広かったと記憶しています。父は会社の風呂に入っていましたので、私は決まって女風呂。母と2人で午後4時、一番風呂を浴びに歩いて通っていました。
小学2年生に上がる前に一ケ岡に引っ越し、それから随分と年月がたちました。8歳年の離れた弟がいますが、彼は引っ越してから生まれたので、緑ケ丘での生活を知りません。家族で私だけが唯一、緑ケ丘出身ということになります。
20年間日向市で働き、数年前に延岡に戻ってきました。何かの縁あってか、今の職場は長浜にあり、毎朝緑ケ丘の道を通って職場に向かっています。
道を通るたびに、うっすらと当時の記憶がよみがえって感慨深い気持ちになります。今でも私の、大切で特別な生まれ故郷です。
◆田近克彦(70)延岡市南一ケ岡
電気は会社のインフラ−九電が停電も影響なし
私は、旭化成の当時の工場病院(中島町)で1951(昭和26)年に生まれ、延岡の社宅で高校卒業まで過ごしました。
幼稚園は会社経営の社宅に近接している浜幼稚園(雷管社宅時代)に通い、小学校は緑ケ丘小学校、恒富小学校と社宅の子どもたちが大多数の中で過ごしました。私は、現在でも延岡弁は意識しないと出ません。それは子ども時代、ほぼ社宅の中で、社宅の子どもたちと遊び、生活していたからと思います。当然ながら、社宅の人々は全国各地から延岡に転勤してきているわけで、社宅生活の中は標準語だったからです。
社宅での電気・水道は工場のインフラの一部でただ同然でした。町の九電が停電していても社宅の中が停電していないときは自慢気でした。つまり、父が水力・火力発電の動力関係の仕事だったためで、特に家では節電する習慣は全くなく、その後、大人になって節電する習慣に苦労しました。
以上のように社宅生活は町の中とは異なった独立した社会でしたが、会社の当時の充実した福利厚生のおかげと感謝しています。